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鶏鳴学園(けいめい学園)

〒113-0034
東京都文京区湯島1-3-6 Uビル7F
TEL:03-3818-7405
  (留守電対応の場合あり)
FAX:03-3818-7958

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鶏鳴学園とは

鶏鳴学園の古典教育

古典を学ぶ目的とは何か

我々が「古典(古文・漢文)」という科目を学ぶ目的とは、一体何でしょうか。

「現国」が、普遍的な思考の方法を学び、普遍的な能力を高める科目であることと対比させると、「古典」という科目は、日本語という特殊な言語、日本人という特殊な民族の問題を考える科目だということになります。

では、そもそも、日本人とは、日本とは何でしょうか。

それは一言でいえば、文化・文明の中心国ではなく、その周辺に位置した後進国でした。
そのために、中心の文化・文明の圧倒的な影響下にありながら、そこからの自立を目指して苦闘してきた民族です。

昔は中国から、近代では西欧から法や諸制度、経済や産業構造、文化を受け入れながら、そこからの自立という重い課題を担い、何とかそれに成功してきました。
その課題は現代でも基本的には変わらないのではないでしょうか。
そうした課題を担い、自らの独自な文化や思想を作り上げてきた先人たちから、私たちの「自立」のための生き方を学ぶのが古典教育の目的です。

日本の独自な文化や思想の根底には、私たちの日本語そのものがあり、その日本語で表現された文化的価値観や思想があります。

1. 日本語とは一体どういう言語なのでしょうか

我々はふだん、日本語を使って、人と会話し、本を読み、メールを打ち、文章を書き、そして日本語という言語によってものを考えています。

しかしその際、「日本語とは何か」を意識することも反省することもありません。

なぜなら、我々にとっての「日本語」の基礎は、幼少期という時代に無意識に習得されたものだからです。
幼少期以後も、語彙だけは増えていくでしょうが、それらの語彙がおよそ無反省に習得されたという点で、基本的には変わりません。

我々は日本語を使っていながら、本当のところ、日本語について何も知らないのです。

しかし、だからと言って、現代語の日本語を勉強し直せ、というのではありません。
今ある日本語について考えるためには、過去の日本語と比較してみること、それが考える手がかりとなります。
古文の文章に現れている日本語は、現代の日本語の、古い姿であり、そこには、現代我々が使っている日本語が、どうして今の姿になったのか、を考える手がかりがあります。

日本語とは何かを考える上で、第一に重要なのは、「助詞・助動詞」です。
なぜなら、日本語という言語の特殊性が現れるのは「助詞・助動詞」であって、歴史上、最も変化し発展したのも、「助詞・助動詞」だからです。
言語が発展するということは、そこに日本人の思考の発展が現れているということです。
「古典文法」を学ぶ上で、助詞・助動詞が最重要視されなければならない理由がそこにあります。

また、漢文の文章も、歴史的に、日本語に対して大きな影響を与えてきました。
日本語の「平仮名・片仮名」も、元はと言えば、漢字から生まれたものであり、また、近代以後に現れた抽象的な語彙の多くは、漢語によって作られています。
「自由・社会・自然・本質・概念」などといったことばは、特に明治維新の時期に、福沢諭吉などの知識人が、西洋語を翻訳して作ったことばであり、江戸時代までの日本になかったことばです。
そこには、ことばが文明を作った、という側面があるのです。
しかし一方で、それらの日本語が、日常的な生活言語とあまりにかけ離れてしまっていることも大きな問題として考えなけれななりません。

日本人である我々が、日本語について、自覚的に、反省的に考えること、それが古典を学ぶ目的の一つです。

2. われわれ日本人が、誇りとすべき日本の心、日本精神とは一体何でしょうか

広く「日本文化」と言ってしまうと、美術、音楽、建築などまで含まれますが、「古典」という科目の対象は、過去の日本人によって書かれた「文章」ですから、その内容は、過去の日本人の考え、思い、問題意識です。

ただし、「古典」と呼ぶ以上、過去の文章であれば何でもいいというわけではなく、現代の日本の精神の基礎を作ったような、偉大な先人の文章でなければなりません。

偉大な先人の文章だからこそ、たとえそれが何千年前のものであろうと、現代の日本の問題を考えるカギとなり、現代を生きる我々に、生き方のヒントを与えてくれる宝物になり得ます。

第一に重要な「古典」は、明治の近代化の過程で格闘し、現代日本の基礎を作った人々の文章です。
その筆頭は、福沢諭吉であり、夏目漱石でしょう。
そして明治の近代化を準備した江戸時代にあっては、伊藤仁斎、新井白石などの儒学者らの文章と、かたや本居宣長を筆頭とする国学者らの文章が重要です。

第二に、「和」とか「和風」と呼ばれる精神、それから「もののあはれ」と言われる精神は、和歌や俳句という言語文化、『源氏物語』などの平安期の王朝物語の文章の中に現れています。

第三に、仏教思想、儒教思想、老荘思想といういわゆる東洋思想があります。
古代中国の哲人らの文章、日本でも空海や親鸞などの文章が例です。
これは、日本文明が精神的に未熟であった時代に、当時の先進文明から輸入されたものであり、日本人の生き方に大きな影響を与えました。
また、明治期においては西洋文明が圧倒的な力をもって日本に流入し、日本は西洋文明を必死で学びました。
しかしそれらはあくまで、先進文明の「模倣」であって、日本という国が「自立」できるか、という大きな問題を、今なお我々に残しているのです。
これら先人の精神を学び、そこから現代の我々自身の問題を考えること、それが古典を学ぶ第二の目的です。

鶏鳴学園の古典の方法

大学受験の古文・漢文に対して、世間には大いなる誤解が存在します。
「古典は暗記科目だ」という誤った認識です。

実際、多くの学校、塾予備校の古文の授業では、「文法」と称して、「活用表」を丸暗記させ、全文を「品詞分解」させ、古典単語を数百個暗記させ、生徒に予習として「全訳」を課すことが一般的だと思います。
また、漢文でも、「句法」と呼ばれる、「文法」と何が違うのかよく分からないものを、ただひたすら丸暗記することが多いと思います。

そんな「知識の暗記」だけの古典の勉強が楽しいはずもなく、また、そんなことをして一体何の役に立つのか、何の意味があるのかも分からず、非常に苦しい思いをしているというのが現実ではないでしょうか。

もちろん、そんな苦しい思いをして「暗記」した結果、古典ができるようになる、というのなら話は別で、まあ仕方ないか、と思えなくもありません。

そして実際、「学校の古典のテスト」なら、多くの場合、「知識の暗記」で通用するのです。

ところが、模擬試験の問題や、実際の入試問題を解いてみると、どうもおかしい、暗記しているはずなのに、結果が出ない、ということが起こります。

なぜなら、大学入試の問題では、「知識」はほとんど問われておらず、実際に問題になっているのは、「文脈の理解」であり、「本文全体のテーマの理解」だからです。

そして「文脈」や「テーマ」を読み取る力というのは、実は、現代国語(現国)で要求されている力、「論理的読解力」に他なりません。
よく考えてみれば当たり前のことですが、古典も現国も、「文章」である以上、文章を読む力とは、現国でも古典でも同じであって、ほんとうは同じ能力を要求されているのです。

鶏鳴の古典は、三つの手順ですべての問題を解きます。
①「正確な直訳」から考える。
②「直前&直後」の文脈から考える。
③「主人公&テーマ」から考える。

このうち、②と③は、鶏鳴の現国で指導する「論理」的解法と全く同じものです。
鶏鳴学園の国語は、現国と古典が完全に同じ方法をとっているのです。

さて、残る①「正確な直訳」とは、「助詞&助動詞」に意識の中心をおいた読み方のことで、この方法は、講習の「基礎古文」の五日間で習得可能なものです。
学校式の「意訳・全訳」ではなく、鶏鳴学園オリジナルの参考書だけを使い、「音読&直訳」で古文&漢文のテキストを読みます。

古文は、「ノリナガの古文」、漢文は「ホクトの漢文」という、10ページに満たないものであり、鶏鳴の古典は、三年間、このオリジナル参考書以外の一切を使用しません。
両者ともに、ほんとうに必要十分な知識がまとまっており、おどろくほど「量」が少ないため、やる気があれば三か月でも完全習得が可能です。

鶏鳴で古典を学び、「古典は暗記科目ではない」ということを知るだけでもずいぶんと気持ちが楽になりますし、現国と同じ鶏鳴式のシンプルな論理的解法で入試問題も解けるようになります。

Voice

鶏鳴では、「古典は暗記ではない」ことを、とても納得する理由付きで説明してもらい、鶏鳴で頑張ろうと思いました。
とくに漢文は英語ととても似ていて、SVO方式を習った時は私の国語人生の中で一番感動しました。
古文・漢文が本当に暗記なしでパズルのように解けるようになるのは鶏鳴以外ではあり得なかったです。

(2015年合格者の声)

Voice

古典はそもそも暗記だと思っていた私にとって、鶏鳴では、現国と同じやり方で大半の問題が解けてしまうことが本当に驚きでした。
知識は最低限しか覚えなくて済んだので、古典に時間をかけなかった分、他の教科に時間を回せて、他の受験生と大きく差をつけられたと思っています。

(2013年合格者の声)

Voice

私の学校では古典漢文を読むだけで、ちゃんと教えてくれませんでした。
学校では読み方ではなく、本文の内容だけしか教えてくれなかった。
そのため、古典漢文が全然読めなくて、面白いと思えなかった。
常になんで昔の文章を読まなちゃいけないのかと思ってた。
でも、鶏鳴の松永先生の授業では内容から質問を答えていくのではなく、文法、直前直後とテーマから質問に答えていくことで正解にたどりつけることがわかった。
古典や漢文はどれだけ単語や熟語を知っているのかではなく、文法が鍵を握っていることがわかった。
はじめに書いたように、古典や漢文の良さがわからなかったが、松永先生が古典は恋愛話が多いと言ってから、昔は特に女性は、命がけで恋愛をしていたんだなと思い、当時の女性や男性の感情が和歌などを通して読んで、感じることの素晴らしさを知った。
また、漢文は人生の教訓が多くて読んでいくうちに、次はなんだろうとワクワクするようになった。

(2013年合格者の声)

講師紹介

松永 奏吾

松永 奏吾

Sougo Matsunaga

略歴:1972年山口県生まれ。
早稲田大学文学部卒業後、鶏鳴学園で古典科目を教えながら東京大学大学院で日本語の文法を研究し始める。
専門は日本語の助詞ハ。
2010年以後は、塾長中井に師事し、ヘーゲル哲学を学ぶ。

私は現在、日本語の助詞ハに関する論文を書いています。
助詞ハというのは、「AはBである」という時の、ハのことです。
私は、日本語のハの奥深さに憑りつかれて研究を始めましたが、今では助詞ハこそが日本語の核心である、という仮説すら持っています。
「AはBである」という時の、「Aは」という表現は、「A」という対象をはっきりと意識し、同時に、「Aは?」と問いかける表現です。
実は、「A」を「意識」することと、それを「問う」ことは同じことです。
「AはBである」とは、「Aは?」という問いに対する答えを「B」と示した文です。
人間は、ぼやっとしているだけで行動を起こさなければ、いずれ滅ぶしかないのですから、我々はたえず、周囲のできごとに対して「Aは?」と疑問を抱き、その答えを「AはBだ!」と答えを出しつづけて生きているということです。
私もまた、「助詞ハとは何なのか?」という問いと格闘しています。

2016/08/29